既見の映画をあらためて文章で楽しむ-本にしかできないコト-新海誠『すずめの戸締り』
Google Adseneseとの闘いの最中に読んでいた本、2冊目は新海誠 著「すずめの戸締り」だ。1冊目のジブリの教科書同様、こちらも例によって長男が学校の図書館から借りてきたものである。
あとがきによると映画製作と同時進行で書かれた本だそうで、読み始めてまず感心したのは、すずめの漢字が「岩戸 鈴芽」であるということだった。映画にも出てきたのかもしれないけれど、こういうことはやっぱり本の方がわかりやすくて良い。
子どもたちと見た思い出の作品をもう一度
近所のシネコンへと、上の息子二人を連れてこの映画を見にいったのがもう4年前という事実。この歳(現在40代)になると時の経つのが早いこと!まさに光陰矢の如しだ。ということは長男が小学校高学年、次男が低学年、末っ子はまだ1歳だったということになる。
わたし自身ももちろん楽しんで鑑賞したが、小さな息子たちにとっては殊更に忘れられない内容だったようで、見終わったあと2人とも口々に「今まで見た映画の中で一番おもしろかった!」と言って目を輝かせていたのを昨日のことのように思い出す。
本を「読む」のではなく「見る」という体験
映画監督自身が書いた「自分の作品の小説版」というのを読んだのは恐らく初めてのことだったと思う(何を隠そう三冊目もそうだったのだが、それはまた次の機会に)。そしてこれがまた実に楽しかった。
新海誠監督自身が作った映像と新海誠監督自身が書いた文章が当然のようにピッタリとシンクロした結果、映画を見た記憶から呼び起こされる映像が文章に直接コネクトされ、まるでアニメを見るかの如く一瞬で読み終えてしまった。超がつくほど遅読なわたしが、である。これはもう体験としては「読んだ」ではなく「見た」の方が正しい。
内容としては、これはもう一切が映画のままで、しかしわたしにとっては本の方が数倍しっくりきた。
子どもたちが感動していた手前その時はあまり口に出せなかったのだが、正直なところ全体的にやや薄味なのかな?と感じてしまうところがあって。テーマややりたいことはちゃんと伝わりつつも、なんだか不完全燃焼の感があるというか。これは面白かったがゆえにもう一声を望んでしまう欲でもあったろうし、そもそも単純にわたしの好みやタイミングと合わなかっただけということでもあったろう。いずれにしても、そういったズレが勝手に補正されてしまうのが本の良いところなのだ。
わたしの思う「本」本はわたしを映す鏡だ
本の良さが最大限に発揮されてより作品を楽しむことができた
もちろん基本的には映画の映像が想起されていても、それはやはりわたし自身の脳が生み出しているもので、自動的にわたしが好むディティールを帯びて再構成されてゆく。映像では「こうですよ」と見たままに突き付けられてくる港や町、スナックや通り、常世の星空、ひいてはキャラクターたちでさえ、文章では自分が納得できる形に変化しながら心に溶け込んでくるわけだ。さすがに映画を見た直後じゃこうはいかないかもだけど、四年も経てばね。
物語についてもそうで、本筋は変わらなくとも、もっとよく味わいたいと思うシーンはそこで立ち止まることができるし、しつこいと感じるシーンはささっと勢いを付けて読み進めていくことができる。というか考えなくても自然にそうなってしまうんだよね。上掲の記事にも書いた通り、そういった「自分自身の個性」が顕著に反映されるのが本の良いところではなかろうか。
いずれにしろそういったアジャストが起きることで、物語をより(自分にとって)あるべき形で楽しむことができた。生きることへの希望や愛に溢れたとても優しい作品だということを再確認できたし、こんな良い映画を子どもたちと一緒に見ることができて本当に良かったとも思った。
ちなみにわたしが好きなキャラクターはダイジンだ。彼がどういった経緯で、いつから要石をやらされているのかに思いをはせると、今スグ飛んで行って抱きしめてやりたくなる。