本はわたしを映す鏡のようなもの
わたしにとっての本とはすなわち文学・小説のことであって、実用書や専門書の類はもちろん、ビジネス関連のハウトゥものとか、自己啓発や啓蒙ウンヌンの本などは一切読まない。もちろんこれらの本をディスっているわけではなく、これから記事を書くにあたっての前提を提示させていただいたまでのことだ。
本カテゴリ一発目である当記事では、そんなわたしが本のどういうところが好きなのかをお伝えしてみようと思う。
好きな本とかはこちらに書いてますこのウェブサイトって?
本(読書)の好きなところいくつか
本に限らず何かの良さを伝えようとした時に、そうでない比較対象をサゲる形でそれを成し遂げようとするのは下品だ。自分が感じる良さを出来るだけ純粋に伝えられたらそれが一番だし、そのようにしたいと常々考えている。…理想はね。そうなんだけど、何かと比較した方が圧倒的にわかりやすかったりすることがあるわけで、このあたりのバランスがとても難しい。
当記事も例にもれず「他媒体と違って本はここが良い」というようなニュアンスの表現になってしまう部分があるかと思うが、それは決して「本アゲ⇔他サゲ」というような意図ではないということだけは先にお断りさせていただきたい。違うからね。全然違うからね(圧
絶世の美女は読み手の数だけ
例えば今わたしが読んでいる最中のドグラ・マグラにこんな一節が出てくる。
その細長い三日月眉、長い濃い睫毛、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。
-夢野久作「ドグラ・マグラ」
要するに絶世の美女だということが書いてあるわけだが、今これを読んだ貴方とわたしの頭の中に浮かんでいるであろう人物像は恐らく全然違ったものであろう。文章がよりどころとなり、そこに実体として読み手の経験・趣味趣向などが肉付けされていくからだ。「絶世の美女」という価値観は当然人によって異なるが、読み手の数だけの「絶世の美女」が存在していて良いという寛容さが本にはある。

「懐かしさを憶える街並み」
「抜けるような青空」
「寒々しい色合いのコンクリート」
「嫌味な目線を此方に向けながら大股で歩き去っていった」
どれもよく見る表現だと思うが、具体的にどういう街並みが懐かしいと感じさせるのか、どういう色合いが寒々しいのか、歩幅何センチからが大股でどんな目線が嫌味なのか。そういったディティールは全て読み手に委ねられており(細かく書かれていることもあるけどね)、それぞれの知識や経験から一番自然で適切だと思われるシーンが自動的にアジャストされていくわけだ。素敵。
だからわたしは挿絵があまり好きではなはい。往々にして、あ…こんな街並みだったんだわたしが思ってたのと違うなってなっちゃうから。
生活に溶け込む
淡々とした退屈な30分があったからこそ後に続く急展開により一層おののく、ということが時間芸術である映画にはある。ジェットコースターのようなバトルシーンがぶっ続けで20分続いたからこそその後の静寂が活きてくる。ならば初めから終わりまで通しで見た方が楽しめる(作り手の意思を正しく読み取れる)のは当然だ。
だから、シンプルに映画の内容が知りたいという場合はファスト視聴もいいだろうが、映画やドラマを「情報ではなく作品として」楽しみたい、ということであれば恐らくは別物として損なわれてしまうだろう。
翻って本はそもそも人によって読む速度が違う。もっと言えばシーンによっても速度が変わる。
自分にとって読みやすいシーンは自然に早くなるし、少し理解が必要になるシーンなどでは当然じっくりと遅い速度で読むことになる。ある程度のテンポ感は書き手の方でコントロールできるだろうが「みなさんここはリズムに乗って早く読んでください」「ここは感動のシーンなので一行につきたっぷり10秒かけて読んでください」というような強制はできない。つまり時間芸術でない「読書」という行為においては、読み進め方やそのペースも読み手に委ねられているということだ。
あくまで自分のペースで、自分のタイミングで、自分がいいと思える読み方で楽しむ。それも本の魅力の一つではなかろうか。
毎朝家族が出かけたあと、洗濯機が動きを止めるまでお茶を飲みながら本を読む。洗濯物干しや夕飯の買い物を済ませたらしばらく仕事をし、お昼時になればご飯を食べた後またなんとなく読む。午後の仕事をし、こうして記事を書きながら内容が浮かばなくなればまた気分転換に読む。あれ?この話って以前のアレから繋がってるんだっけ?と読み返す。納得してまた戻る。気になってまた違うページを確認する。夕飯の準備をし、妻と子どもたちが帰宅してみんなで食べ、ゆっくり過ごしてまた寝る前に読む。
わたしにとっての本はこのように完全に生活に溶け込んでいて、それが何とも心地良い。

今の自分が反映される
まとめのような意味合いになるだろうか。
本当に抜けるような青空を知る前の自分と、知った後の自分ではその文章の味わいが変わる。なんならこの先もっともっと抜けた青空に出会うかもしれない。
本当に悲しいことがあって文字通り心にポッカリと穴が開き、悲しみが物理的な塊となって身体に痛みをもたらすことを知ることで「悲しみ」という表現の深度が増した。でもこの先もっと絶望的な悲しみを味わうかもしれない。
ここまで書いてきた通り本というのは他のコンテンツに比べて読み手の人間性を反映しやすい媒体だから、こういったその時点でのわたしの経験やセンスを如実に写し取り、まるで文章の中にそのまま自分自身を見ている気持ちになることがある。

経験したことの一つ一つが本の中に積み重なっていくのを感じるのはわたしにとって豊かな体験だ。まぁそんなことを考えながら読んでるわけじゃないけどね。結果としてということ。
読み返してみたらなんだか偉そうに書いていて嫌だなぁすいません真剣になりすぎてしまった。基本的には本が面白くて好きだから読んでいるだけです終わり。
僕らには青空文庫があるじゃない
余談だが、青空文庫というサイトはご存じだろうか。
参考サイト青空文庫 Aozora Bunko
著作権が消滅した文学作品や、著者が公開を許諾した作品を電子化して無料公開しているウェブサイトだ。運営の内実はまったく知らないが多くのボランティアの方々のお陰で成り立っているということは間違いないと思う。本当にいつもありがとうございます。
わたしのような昔の本好きには楽園そのもので、同様な嗜好をお持ちでこのサイトを知らなかったという方はぜひ使ってみて欲しい。ちなみにわたしは縦書きで普通の本のように読める以下のビューワーサイト様を利用させていただいている。
参考サイトえあ草紙・青空図書館 ◀ 青空文庫を美しい縦書きで
興味のある方はぜひ。