多様性って「どうでもいい」んじゃないか
多様性を認めるということは、今や逆にマイノリティである「多様性を認めたくない」という人の考えも尊重されなければならない。「同性愛者を生理的に受け入れられない」といった人もそう。
こういった人を無下に非難することは結局、マジョリティがマイノリティーを弾圧するという旧来の構造はそのままに、ただただ立場が逆になっただけで何の進歩もない。実際にそんな状態になってしまっている今の社会を見て呆れているのはわたしだけではないはずだ。そんなことでいつしか「多様性って簡単に使っていい言葉じゃないんだろうな」との思いに至り、それ以上真剣に考えるのをやめていた。
で、先日マチダ家は二泊三日で東京ディズニーリゾートに遊びに行ってきた。話がアンドロメダの彼方まで飛ぶぜぇぇぇぇ!
TDRですれ違った様々な人について思うこと
初日にディズニーランド、翌日にディズニーシー、そして三日目には帰るというスケジュールで、同じ日程で遊んだ2年前と同じくめちゃくちゃ楽しめた。やっぱりディズニーはハンパねぇや。2026年6月21日現在、トップページに掲載しているトランヴェールの画像はその時の新幹線車内だったんだねぇフムフム。




参考ページ植物の名前が知りたい Part1







それにしてもディズニーリゾートには目が回るほど様々な人がいたよ。
白人、黒人、黄色人種、アラブ系やインド系、スペイン系、老若男女ファッションも様々で、私服に制服、お姫様の衣装やコスプレ、タトゥーが入っている者いない者、ピアスがじゃらじゃらついていたり、眉毛が無かったり、太っていたり痩せていたり、女性のような男性、男性のような女性、それらが一堂に会した様はさながら坩堝で溶け合った金属のようであった。
どうでもよくなるまでの経緯
四十を超えて真剣におしゃれをする機会も気持ちも減ってきてしまったが、基本的にわたしはおしゃれが好きだ。お気に入りの服を着て得意満面に街を歩くのは実に気分がいい。だから今回の旅行にあたってTシャツも新調したし、若い頃あけた耳のホールにピアスだって通した。
それでも長野の田舎から都会に出てくると色々気にしてしまうもの。
人と違った髪型は今どう見えているのか(わたしは少し変わった髪型をしている)、実は靴下の足首ら辺が少し薄くなっているのに気づかれていないか、結構汗をかいたが体臭は大丈夫かといった個人的なことから、子ども3人、妻とわたしの5人パーティーは他人から見てどんな雰囲気なのか、末っ子のテンションが上がりすぎて周りの人に迷惑ではないか、といった家族全体のことまで内容は様々。
まぁ実際そこまで大げさに意識してはいないものの、知らぬ間にこういったことが少しづつ心をすり減らしているものだ。それらの心配は「社会性がある」状態だからこそそうなるわけで、本来悪いことではないはずなのだが、あまり気にしすぎるのも疲れてしまってよくない。

初日のディズニーランドでは乗りたかったアトラクションほとんど全てを遊ぶことができ、ホテルでもとても楽しい時間を過ごした。勇んで始まった2日目だったが前日の疲れが残っているところに午後は通り雨が降り、おまけにシーが開園25周年というタイミングだったことで園内は想定以上に混雑。そんなこんなで4歳の末っ子は昨日に増してグズグズしだし、わたしの心と体はどんどんすり減っていった。
そして夕方。通り雨が過ぎ去った頃。
ちょうど頭の中にパッと明かりが灯るようなイメージで、唐突に全てがどうでもよくなった。
ディズニーマジックで解放された心
まず本っっっっ当に色んな人がいたの。
それこそ初日は、全身にタトゥーをキめた白人の方とすれ違う時にちょっとだけ身構えちゃったりしたものだ。インド系の方とキャストさんが何やら言い合いをしているのをみて緊張したり、もうほとんどお尻が見えちゃてるような女性がいて目のやり場に困ったり。でもね、本っっっっっっっっっっ当に色んな人がいたんよ。だから2日目に遊び始めた頃にはほとんど気にならなくなっていた。
こうなるともう、タトゥーの人もお尻の人も声の大きいインドの人もわたしも結局のところみんな一緒だ。

その時の気持ちを言語化すると以下のようになる。
彼のタトゥーとわたしの薄くなった靴下は全然違うんだけど、どちらも「全然違う」という意味で一緒(タトゥーに失礼)。わたしとインド人さんは生まれも育ちも文化も全然違うんだけど、お互い全然違うということが一緒なの。だからみんな一緒なのトンチみたいで申し訳ないんだけど伝わるんかなこれ。別にはねつけるというわけではなく、かといって仲良くするわけでもなく、ディズニーリゾートに遊びに来た仲間同士楽しくやろうぜぐらいの感覚。
この時点で大分おかしなことになっていた思考が、夕方になって滅法疲れてさらにメンタルがぶっこわれた結果全てがどうでもよくなった。

隣にいる女の子二人、体格や雰囲気から一人はたぶん男性がドレスを着てお化粧をしているんだろう。彼がオシャレでしている女装はわたしがオシャレでしているピアスとは違うが、違うという意味で全く一緒だ。だからそれは心からどうでもいい。わたしのピアスもどうでもいい。どうでもいいからやる意味が無いというニュアンスではないのがポイントで、どうでもいいからこそピアスをしてもいいしドレスを着てお化粧をしてもいい。そしてそれら全てはどうでもいい。どうでもいいからといってバカにしたり礼節を欠いたりはしないそれは全く別の問題だから。
こういった感覚が目に映る全ての要素に適用された結果『雨で濡れたわたしの髪の毛はさぞボサボサだろうが、それはあの子がポップコーンを食べていることと「違う」という意味で一緒だからどうでもいい。』というようなマジで意味不明な感覚さえ芽生え、だったら本当に大切なことは「触れ合ってみて、話してみて楽しいかどうか」ということだけなのではないかという所に行きついた。
あなたが男だろうが女だろうが、マイノリティな性癖があろうが、どこに住んでいる何系の何人だろうが、どんな服を着ていようがそれはもう本当に心からどうでもいい。大切なのは一緒にいて楽しい時間が過ごせるかということだけだ。

これ冗談で書いているわけじゃなくて、本当にこんな気分で歩くディズニーシーの気持ちよさったらないよ。自分自身も家族も他のみんなも全員ここにいていいんだという感覚。だって全てはどうでもいいんだから。人と違った髪型やすり減った靴下なんて全然気にすることないみんな楽しくやろうぜっていう。こんな気持ちが多様性の本質なんじゃないかなぁと思えた、というのが当記事の趣旨だったのだ。
わたしの心をこんな風に解き放った要因の一つに「ここがディズニーリゾートだから」ということもあったと思う。上から下まで平和と夢の世界でさ、次々楽しいアトラクションで遊び倒したらこうもなるよ。ディズニーマジック凄まじいね。
夢は泡沫に消ゆ
逆に言うと靴下が擦り切れていようとおかしな髪型をしていようと、とにかくつまらない奴になるのだけは嫌だなと思った。
例えばお笑いのセンスが無くても、相手を喜ばせる気の利いたことが言えなくても、知識欲を満たせるような学のあるトークが出来なくても、親身になって誠実に相手の話を聞くことはできる。その時点でつまらない奴にはならないのではなかろうか。帰りの新幹線に揺られながら、疲れて眠る長男の隣でそんなことを考えていた。

帰宅して二週間。
散歩中にすれ違った異彩を放つファッションの紳士に、思わず身構えたことでもう魔法が解けてしまっていることを知った。はやっ。
いつでもあんな心持ちで過ごせるようになるにはどうやらもっと修業が必要らしい。先は長いぜ!