マチダの生活

102026 10

それは時を超えて、現代の僚友たちに捧ぐ人間賛歌 - サン=テグジュペリ『人間の土地』

 「本」カテゴリの記事を書いていないあいだも当然のように本自体は読み続けているわけで、この期間に何冊か読んだどの本もそれぞれに面白さがあったが、あえて記事にしたいというものはなかった。この『人間の土地』を読むまでは。

 いやぁ、やっぱり凄いよサン=テグジュペリ。元々大好きな作家だが、この本は他作品に比べても図抜けている。

わたしの好きな作家とかこのウェブサイトって?「本が好き」の項

 貪るように読み進めつつも、時に立ち止まって想像し、反芻し。彼が言っていること、伝えたいであろうことをカラダに沁み込ませるようにして。本を読んでいるその間、わたしは確かに彼の『僚友』であった。

これまでに、どのような場合に、ぼくらが幸福であったかを思い出して

 始めにお伝えしておきたいのは、これは小説ではなく自伝的エッセイだということ。

 彼が生業としていた郵便飛行士としての体験を基軸に、その郵便航路での数々の体験や、僚友たちとの絆などを通じて、彼の豊かな感性は「人間の本然とは」「本当に価値のあることとは」というような哲学へと羽ばたいていく。そしてそれは全く今日の世界においてもその根底を形作っている奔流であり、その時々によって揺蕩うような価値観ではなく、知性を持つ人間という生物にとってはプリンシプルなものであろうと思う。

 この種の人生哲学は、サン=テグジュペリのように研ぎ澄まされたセンスを持っていなくても、年齢を重ねていけば誰の中にでもある程度勝手に造成されていくものだ。例に漏れず40代のわたしには40代のわたしなりの哲学があり、そういう目線からも実に読みごたえのある本だった。

クソ真面目に知性的でロマンチックなサン=テグジュペリの、まるで宝石のような感性

 それにしてもこの人って、たとえば「南方郵便機」なんかを読んだ時はすごく高貴というか、「高貴さが漂うほど責任感があって真面目」というようなパーソナリティーを持つ人が書いた本なんだろうなぁと想像しながら読んだものだが、どうやらそれは少し違っていたみたい。

 実際の彼はもっと人間的で、その一見硬質な「高貴さが漂うほどの真面目さ」は、実はとても柔和な「知性とロマンチシズム」が下支えしているのだということがこの本を読んでよくわかった。

 プンタ・アレナスよ! ぼくは、とある泉に寄りかかる。老婆たちが、そこへ水を汲みに来る。彼女たちの一生の悲劇について、いまのこの婢としての身振り以外には、ぼくは何も知らずにしまうはずだ。一人の少年が、壁に首をもたせて、声もなく泣いている。ぼくの思い出に、彼については、慰めがたい一少年として以外、何ものも残らないはずだ。ぼくはエトランゼだ。ぼくには何もわからないのだ。ぼくは、彼らの帝国にはついにはいってはゆけないのだ。

- サン=テグジュペリ 人間の土地『飛行機と地球』章より

 これは航空郵便航路の途中で立ち寄るプンタ・アレナスという街での一幕である。

 その土地や街、宗教の寺院など、ただ立ち寄っただけでは何もわからない。そこに居を構えて、また実際にその神に全てを捧げて、何年も何年も暮らしてみてようやく見えてくることがあって、それを味わって始めてそれらを「知った」と言えるのだという彼の考え方が良く伝わるシーンだ。まさにその「エトランゼ感」!それがもたらす旅情がもう…なんだか切なくなっちゃうほど好きな文章。

 こういったロマンチシズムからくる一種のストイックさが、別の側面から見ると「なんだか気難しそうだな」=「クソ真面目なんだろうな」というイメージに帰結するのであろう。重ねていうがそれは間違いだった。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。~中略~
 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ。

- サン=テグジュペリ 人間の土地 冒頭より

 彼は夜間飛行中に見えるともしび一つ一つにドラマを感じ、それらと心を通わせようとすると同時に、そういう気持ちで飛行している自分自身を完成させようとも努めている。ロマンチシズムとストイシズム。それらは決して相反するものではなく、彼の中でルーツを同じくして醸成されていったのだろう。

 そんな彼だからこそ、いつ命を失ってもおかしくない非常に困難な「郵便飛行」という生業をこなしつつも、ある時は砂漠に点在する哨所で、ある時はプンタ・アレナス、ある時はコンコルディアで、彼が出会い共に時間を過ごした人々が、街が、なんと魅力的に描かれていることか。彼が飛んだ空が、彼の僚友が話して聞かせた大嵐が、雷が、なんと恐ろしく荘厳に描かれていることか。

 大前提として知的な基盤があり、そこから発展したロマンチシズムを通して見た彼の景色があり、それらが類まれなる才能をもって書かれた文章の上で再生されていくのである。素晴らしくならないわけがない…ってさすがに褒めすぎぃぃ!って言われたらそうかもしれないけど、だってそのぐらい良かったんだからもうしょうがない。

「砂漠の真ん中で」彼が苦痛すら失ったこと

 サン=テグジュペリがリビア(「サハラ砂漠」と書いた方がいいか)で遭難した壮絶な体験が綴られた『砂漠の真ん中で』という章は、ある意味でこの本の背骨だと言っていいだろう。この章での生死をかけた体験があったからこそ、それが今までの経験と絡み合い、この後に語られる彼の人生哲学へと繋がっていくわけだ。

 これはねぇ、もうメインディッシュには違いないんだけど、それがどうすごいのか、どんなことが書かれているのか、それを上手にご紹介することはわたしにはできない。だってサン=テグジュペリが書いた文が一番良いんだから、ここにわたしが何か書こうとすればするほど陳腐化するに決まっている。

 とにかく彼は僚友プレヴォーとともに砂漠のど真ん中に墜落し、あがいて、あがいて、時に達観して、死神の鎌がその首筋を今まさに切り裂かんとしても、それでもあがいて、…まぁ結果この本を書けているんだから最後は生還するんだけどね。

 その過程はとにかく読んでいただくとして、もうね、読みながら喉がカラカラになっちゃったよわたしは。この章を一気に読み終えてしばし放心し、その後キッチンへ行っておもむろに飲んだコップ一杯の水がどれだけ美味しかったか。なんか…こうしてみるとアレね、わたしってめちゃめちゃ本を楽しんでいてちょっと恥ずかしいけどまあいいか。自分自身のブログでかっこつけてもしょうがないし。

 とはいえせっかくなので一遍、サン=テグジュペリが救出される寸前の、もはや限界を迎えた感情の動きがよく伝わるシーンをご紹介させていただこう。

 ぼくは、自分の中に、非常に干からびた感情以外には、何一つ見いださない。ぼくは、いまにも倒れようとしている、それなのにぼくは絶望を知らずにいる。ぼくには、苦痛さえもない。ぼくには、それが残念だ、なぜかというに、苦痛がぼくには水のようにやさしく感じられるだろうから。人は自らを憐れむものだ。そして人は自らを友のようにいたわるものだ。ところが、ぼくにはもう世界じゅうに、一人も友がなくなってしまった。

- サン=テグジュペリ 人間の土地『砂漠のまん中で』章より

 苦痛すら友と感じられるほどの虚無。

人間とは

 こうした様々な経験を経て、いったい人間とは何か、豊かに生きるとはどういうことか、最後に書かれる彼の結論についてもわたしはご紹介することができない。少ない文で簡単に書き直すことはもちろんできるとは思うが、そうすれば必ず、それが例えわずかであったとしても、彼が書こうとしたニュアンスから遠ざかってしまうだろう。それは絶対に避けたいのだ。ぜひ自分自身の目でお楽しみいただきたい。

 最後に、この本はサン=テグジュペリから現代に生きる我々へと、時を超えて届けられた渾身のメッセージである。

 飢え、ぼくらが、感ずるところのもの、スペインの兵隊を、砲火を冒してまで、植物学の講義に導くあの飢え、メルモスを、南大西洋調査にと追いやり、また別の一人を彼の詩に追いやりつつあるあの心の飢えは、この伝授の系統が、まだ終わっていない、ぼくらがぼくら自身と世界を認識しなおす必要のあることの証拠だ。ぼくらは、夜の中へ、タラップを放つ必要があるのだ。ただ、自分たちの知能を、利己的な存在だと信じ、自他の区別をしている人たちだけが、この飢えを知らずにいるが、じつにあらゆる事物が、この種の知能を否認する!僚友諸君、わが僚友諸君、ぼくはきみたちを証人に立てる、これまでに、どのような場合に、ぼくらが幸福であったかを思い出して!

- サン=テグジュペリ 人間の土地 最終章『人間』より

 わたしも、世界中にいるであろう彼の証人の内の一人だ。

 これまでに、どのような場合に、皆が幸福であったかを思い出して。

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