わたしの大好きな作家であるアーネスト・ヘミングウェイの遺作「移動祝祭日」は、彼の輝かしいパリ生活を綴ったメモワールだ。時は1920年代。当時まだ20代前半の駆け出し作家であった彼の、カフェにこもって執筆に没頭する日々や、芸術界を牽引するクリエイターたちと交流を重ねる様子などが瑞々しい筆致で描かれている。
そして何より印象深いのは最初の妻ハドリーとの生活だろう。
結局は彼の浮気が元で離婚してしまうわけだが、晩年にその時代を振り返って書かれた本著には非常に愛情深く、また敬意を持ってその人物像が描かれている。もう戻らない彼女との生活を慈しむ様は、まるで宝箱の蓋を開けて眺める少年のようで、なんだか胸が詰まるような思いで読み終えた。同氏にとってあの頃のパリとはつまり、ハドリーそのものだったのではなかろうか。